2017年08月14日

四条新町糝粉屋新兵衛の糝粉を喉につめる  紺田屋

ご訪問ありがとうございます。
落語の旅人、庭乃雀でございます。

京都の夏といえば、はずせないのが祇園祭。
最近の地獄のような暑さと、混雑ぶりを考えると躊躇してしまうのですが、
やっぱりあの祭りの空気に触れたくて足は京都にむかうのでした。

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祇園祭の山鉾巡行は平成26年から、7月12日〜17日までの前祭りと
18日〜24日までの後祭りの二部制になっております。
いにしえの祭りの形態復活とか。諸々事情はあるようですが、
観客動員数を二分化するためというのも理由のひとつと思われます。
が、いかんせん、薙刀、月鉾などの主要鉾の巡行は
前祭りに行われるわけで、偏りは否めません。
果たしてこれで集中は緩和されるのでしょうか。

ともあれ、今年は後の祭りを体験することにしました。
祭りの前に『の』の字を入れるとなんだか残念な感じになりますね。
実際『後の祭り』ということわざの語源は、ここからという説もあります。
華やかで豪華な鉾が連なる前祭りに比べて、後祭りは鉾の数も少ないし、
華やかさにかけて少々地味な感じですもんね。

ところが〜行ってみたらばそんな危惧は無用のことと思い知りました。
確かに10騎の巡行はこじんまりとしていましたが、
優雅さは見劣りするものではありませんでした。
トリを務める大船鉾は勇壮で、のぼりをたなびかせて眼前を通り過ぎる姿に惚れ惚れ。
なんと150年ぶりの復活で、ご祭神は神功皇后。前祭りで巡行する船鉾は出陣の時を、
後祭りの大船鉾は勝利を収めて凱旋する姿を現しているのだそうです。
なので祭神のお姿も行きは甲冑、帰りは狩衣をまとっていらっしゃいます。

祇園祭_2.jpg

御池通りを東進する巡行を見送ると、遅い朝食をとるべく寺町商店街に。
めざすスマート珈琲店は昭和7年創業の老舗カフェ。ここで食べるべきは、
絶品と評価の高い、舞妓さん御用達のたまごサンドとフレンチトースト。
確かにどちらもふわふわと夢のように美味でした。

毎日舞妓さんたちに愛されている味に満足したところで、何やら通りから太鼓の音が。
出てみると祇園太鼓の音色でした。目にしたのは長い行列。
美しいサラブレッドにまたがった小学生の男の子達(馬長稚児)
それに付き添う和服姿のお母様たちのきれいなこと。花笠をかぶった神饌、
鷺の装束をつけた鷺踊の美少女達、宮川町の舞妓さん、祇園甲部の芸妓さん。
なんて美しいんでしょう。三年坂あたりにいるエセ舞妓とはわけが違います。
賑やかで艶やかな一行が続きます。
八坂神社石段下から出発して、寺町商店街で待機中の花笠巡行の列なのでした。

後の祭りは鉾の巡行だけではなかったのですね。
こんなに真近で見られるなんてラッキー!
スマートさんにサンドイッチ食べに来て良かった(≧∇≦)
このあと、華やかな花笠連とともに八坂神社まで巡行を楽しんだ雀でありました。

チュンチュン

さてさて
三条室町に紺田屋忠兵衛というちりめんを商う指折りの大家がありました。
一人娘のお花は十八歳。室町小町とか今小町とか呼ばれ、町でも評判の別嬪さんです。
蝶よ花よと大切に育てられてきましたが、原因不明の病に倒れ、医者も匙を投げる状態。
今わの際に娘が最期のおねだりをします。

「四条新町の糝粉屋新兵衛の糝粉が食べたい」

すぐに取り寄せて食べさせてやります。ひとつふたつ美味しいと言って食べ、
三つ目を食べかけたところで団子をのどにつかえてとうとう死んでしまいます。

娘の遺言通り髪はおろさず結い上げて、きれいに化粧して、
お気に入りのべべ簪で飾ってやり、三百両のお金と共に土葬にします。

当時天下通用のお金を土に埋めると罪になったそうで、この事が世間に知れたら
旦那さんが罪人で捕まるかもしれないと思った番頭の久七。
夜陰にまぎれて墓を返します。そして死体の首にかかった財布の紐を引っ張ると、
その拍子につかえた団子が通ったとみえて、死んだはずの娘が息を吹き返しました。

びっくりしながらも、ご両親がどんなに喜ばれるか!今すぐ帰りましょうという久七に、
娘はこんな姿で家に戻ったらあの娘は蘇り者やと世間に噂が立つ。
それより私を連れて逃げてくれというのでした。

そこで三百両のお金を持って江戸へ行き、『紺田屋』の暖簾を上げ、
縮緬問屋をはじめたのでした。

一方両親は一人娘を亡くしてすっかり生き甲斐を見失い、店は親類に任せ、
土地なども売り払って四国西国巡礼の旅に出ます。
その後坂東にも巡礼地があるらしいということでやって来たのが江戸でございます。

罪障消滅の旅ですから、修行者のような安宿に泊まります。
昨夜も木賃宿に泊まり、浅草の観音様にお参りして商家が並ぶ通りに出てくると
『紺田屋』という暖簾が目に入ります。

同じ名前で同じ商売をしている店があるもんやなあと店の前で中を覗き込んでいると、
今や大家の旦那さんとなった久七がかつての旦那さん夫婦に気づきます。

そこで感動の再会とあいなりました。死んだと思っていた娘に会えてまるで夢のよう。
これも観音様のご利益やなあと喜び合う両親。
つもる話をし、この夜は暖かい絹の布団で休みます。

「それにしても昨夜の宿ではシラミに攻められて寝られませんでしたなあ」

「けど、あれも観音様のご利益じゃ」

チュンチュン

シラミの事を昔から観音さんと呼んでいました。
手足がたくさんぐしゃぐしゃ動かしている姿を千手観音とみたようです。
このことを知らないとサゲの意味はさっぱりわかりませんね。

【本日のよもやま】
本日のお噺の舞台は京都。祇園祭後祭りの町を散策して参りました。

お花が最期におねだりしたお団子屋さん、糝粉屋新兵衛があったのは四条新町。
『四条新町糝粉屋新兵衛』と韻を踏んだ“し”づくしになってます。
糝粉は米の粉で作ったお団子で、当時人気のあったスイーツ店ってところでしょうか。
四条新町に今それらしきお店は見当たりませんが。
米朝ばなしに載っていた四条新町の写真とはずいぶん様変わり致しました。

紺田屋忠兵衛さんがあったのは室町三条。
室町通は繊維の町で西陣織や京友禅などの問屋街としても有名です。

祇園祭のとき、室町通と新町通りにはそうそうたる鉾が並びます。
残念ながら前祭りの鉾達はもう片付けられていて見る事はできませんでしたが、
ちょうど室町三条あたりに陣取っている黒主山と役行者山を見る事ができました。
鉾を守っている町内の人たちが巡行の準備でたくさん集まってらっしゃいました。

黒主山を見送って、室町通を少し下がると、あれ?
誉田屋さん発見! 誉田屋源兵衛株式会社、創業280年の西陣帯匠とありました。
どうやら関係はなさそうですが、お噺のほうがこちらをモデルにしたのかもしれませんね。

祇園祭_1.jpg

そもそも『誉田屋』が正しいのではないかと米朝さんも『米朝ばなし』に書かれています。
誉田は今もある大阪の地名で、こんだと読むのもなかなかむずかしいですね。
だから読みやすい紺田屋にしたのではという見解です。

調べてみると誉田屋さんがもう一軒ありました。
室町通りをずっと上がって室町二条冷泉町に株式会社誉勘商店というお店があります。
こちらの創業は誉田屋勘兵衛さん。

本家は誉田屋庄兵衛といい、三井越後屋と並ぶ商家で、西陣織着尺、白亀綾ちりめん
(宮中、将軍家の絹肌着)、ビロードなどの呉服商を営んだのが誉田屋の始まりと
されています。1720年のことですから、創業なんと297年です!

以来分家誉田屋仁兵衛さんも同じ冷泉町で創業。庄兵衛さんを本家とする一統が、
代々用いていたのが『誉田屋』という屋号で、誉田屋一統を形成していました。
屋号の由来は庄兵衛さんの出生地が河内の国古市郡誉田の床ということによります。
(現在の大阪府羽曳野市誉田) 

う〜ん、ということは源兵衛さんも誉田屋一統ということなのかしら。
お互いの歴史や由来の文献にお名前出てこないんですけどね。
縮緬問屋つながりで紺田屋忠兵衛さんのモデルはやっぱり庄兵衛さんの方かな。

チュンチュン

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posted by 庭乃雀 at 02:24| Comment(0) | 京都編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする