落語の旅人、庭乃雀でございます。
前回少し触れたので、今日はそのお噺、『土橋万歳』を。
あんまり演じられることのない珍しいお題だそうで、
雀も初めてでした。音源は米朝さんのもので聴きました。
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お噺の舞台は難波。
享保17年に起こったイナゴによる大飢饉。
幕府は救済事業として、今のなんばパークスあたりに米蔵を建て、
西に向けて道頓堀川に合流する堀川を開削しました。
これが入堀川、俗に新川とよばれたこの川にかかっていた橋が難波の土橋。
『土橋万歳』の舞台です。ちょうど高島屋の西北角、難波西口交差点あたりかな。
パークス通りは川だったんですね。
土橋を渡った体で、少し西に行くと鉄眼寺というお寺があります。
最寄駅でいうと地下鉄四つ橋線32番出口から出て南へ約200mぐらい。
まわりをビルに囲まれたどこか中国風味のお寺で、山門扉の桃のアイテムが
異彩を放っています。
正式名を慈雲山瑞龍寺と申しまして、薬師三尊を本尊とする黄檗宗萬福寺の末寺。
最初薬師堂だったのを、鉄眼禅師により瑞龍寺として再興されました。
黄檗宗は、達磨大師の教えを受継ぐ禅宗の一つで、中国から渡来した隠元禅師によって
開かれました。鉄眼さんは隠元禅師の元、禅宗を修め布教に励みます。一念発起して
一切経(仏教聖典を集成したもの)の版木作りを志すも、その道は困難を極めました。
苦労して集めた資金もその頃大阪で起こった大洪水や、大飢饉による難民救済の為
すべてつぎ込みまた振り出しへ。そんなことが2度もありながら15年の月日をかけて、
6956巻32万ページにも及ぶ一切経を完成させた凄い人です。
鉄眼禅師は大阪の救世主として慕われ、お寺の名前の由来となりました。
お噺の中では「鉄眼寺の達磨さんと根競べしなはれ」というセリフで登場します。
鉄眼寺には、嘘か真か河童のミイラや龍のミイラが安置されており、
一時は水の神様としてお祀りされていたそうですが、現在は非公開となっております。
ネットで検索すると、姿を見ることができますよ。
なんでも江戸時代に堺の商人により奉納されたものだとか。
一般公開される機会があれば、見てみたいものですね〜
チュンチュン
さてさて
船場は播磨屋の若旦那、道楽が過ぎて奥の一間に閉じ込められております。
丁稚の定吉を買収して、まんまと抜け出すことに成功した若旦那、
ミナミの大梅というお茶屋から一方亭へと繰り出して、どんちゃん騒ぎを始めます。
道楽者の若旦那に日々心を痛めている番頭さん。
ちょうど定吉をお供に出かけた近所の葬礼の帰り、定吉の様子から
若旦那が屋敷を抜け出して、お茶屋に出かけたことを察します。
若旦那の行き先を聞き出した番頭、定吉を先に返して一方亭へとやって参ります。
遊びのまっ最中の若旦那、番頭にうるさく説教されて逆上。
番頭を二階からけり落としてしまいます。
番頭は痛さをこらえてトボトボと、肩を落として去ってゆきます。
若旦那「座が白けたから河岸をかえよう」と、
芸者、幇間連中引き連れて新町へと向かいます。
途中難波の土橋にさしかかると、現れたのがひとりの追いはぎ。
刀を突きつけられて、連中一人残らず若旦那を置いて逃げてしまいます。
「今日限り極道をやめろ」とせまるけったいな追いはぎの正体はなんと番頭でした。
またまた教訓めいた説教を始める番頭の額に雪駄の一撃を食らわすと、
ここから『夏祭り浪花鑑』団七九郎兵衛の義平次殺しのパロディーになります。
「お店の為にならんお方、観念なさんせ!」
持っていた葬礼差しで若旦那を斬り殺してしまう。
そこで「うーん」とうなされて、若旦那の目が覚めた。どうやら夢だったようです。
帳場では番頭が同じようにうなされて目が覚めた。同じ夢を見ていたようです。
若旦那は今迄のことを改心。めでたしめでたしと思ったら、側にいた定吉が泣き出した。
若旦那のこれが夢でなく現実やったら理由はどうあれ、主殺し、親殺しは重罪で死刑や
という言葉に反応したらしい。
「重罪(十ざい)で死刑やったら、うちのおとっつあんどうなります?」
「おまえのおとっつあん、何や」
「大和の万歳(万ざい)でんねん」
チュンチュン
【本日のよもやま】
十罪で死刑やったら万罪ではどんなことになるんでしょう
という定吉のかわいい心配がサゲとなります。
万歳とは、万歳楽のことで、お正月に家々をまわり、おめでたい言葉を述べて舞を舞う
門付芸能です。才蔵の鼓に合わせて太夫が演じる2人組の芸能なので、
これが今の漫才の原型なのかもしれませんね。
江戸時代に興った千秋(せんず)万歳がはじまりで、三河万歳、大和万歳、尾張万歳、
秋田万歳等があります。
大阪の門口には大和からの万歳が立つことが多かったそうです。
定吉のおとっつあんは大和の万歳師だったのですね。
大和出身者は我慢強く働き者という定説があり、丁稚も大和出身者を採用することが
多かったようです。そういえば落語の中で、「大和の実家に帰らせてもらいます」
というおかみさんや、番頭さんがよく出てきますね。
大阪の商家はみんな大和から嫁や使用人を迎えていたのですね。
チュンチュン
このお噺に登場するお店はたぶんいずれも実在だと思います。
若旦那が丁稚だまして出かけた先はミナミの大梅というお茶屋さん。
『口合小町』というお噺にも出てまいります。坂町にあったお茶屋さんのようです。
そこで芸者衆や太鼓持ちと待ち合わせ、メンツが揃ったところで難波の一方亭へ。
所在地は不明ですが、たぶんこの辺りだったんではと推測する場所に今、
一芳亭という中華料理屋さんがあります。
ゆかりあるお店かどうか定かではありませんが、こちら昭和8年創業の老舗で、
薄焼き卵の皮で包まれたシュウマイが有名。池波正太郎さんも好物で通われたそうな。
テレビ『松本家の休日』でも紹介されたようです。
丁稚の定吉が、番頭さんにおねだりするお店は戎橋の丸万。
明治時代の戎橋を移した写真や『大阪案内』という図絵に見ることが出来ます。
戎橋北詰西角にあったうどん屋さんで丸万北店となってます。
他にかまぼこやさん(丸万中店)や、魚すきのお店(丸万本家)などもあって、
戎橋では有名な大店やったようですね。
特に魚すきのお店は十日戎の帰りに丸万の魚すきで一杯やるというのが、
大阪の風物詩にもなっていたとか。こちらは今でも堺筋本町で営業されています。
またまた行ってみたいお店が増えました〜。
チュンチュン
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