落語の旅人、庭乃雀でございます。
鼓が滝ってどこにある?
米朝さんが米朝ばなしに書かれていた鼓が滝の情報は、
元川西市職員の方が書かれた『摂津名所の鼓が滝』という文献からのもの。
現在鼓ヶ滝といわれる矢問銀橋付近の猪名川の水流を「滝」というのは
不自然とされて、近辺を探した結果、やや下流右岸の能勢電鉄の線路を
渡った所にある小さな滝こそ本当の鼓ヶ滝であるとされました。
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矢問滝ノ原の滝山寺境内にあったというその滝。
今もあるなら是非見てみたい!
と、色々調べましたが、地図にも載っていません。
地図にないということはもうないのでしょうか。
するとネットで唯一ヒットしたサイトに現在の写真がありました!
その方は全然別の目的でこの地を散策していて、
たまたま行き当たったらしいのですが、
あまりにアクセスが危険なのでおすすめしないと書かれていました。
で、現状は朽ちかけた鳥居に滝山寺の文字、
かろうじてここがお寺だったとわかる廃寺となっておりました。
お堂らしき建物の横に、滝の水が流れていたあとのようなものが残っています。
ここが西行さんも歌に詠むほどの景勝地、鼓が滝だったのでしょうか。
鼓ヶ滝、滝山寺について川西市にも問い合わせてみました。
すると資料と共に丁寧な回答を頂きました。要約すると、
日本では古代から岩場のある急流を「滝」と呼んでいましたので、落下型の滝を
探さずとも、奇岩が多い猪名川の流れを鼓ヶ滝と呼んでもいいんじゃないか。
と、滝山寺説にはやや否定的な見解でした。
なるほど。
古代の人々は、岩に砕けて流れる急流を滝と呼んで愛でたようです。
歌人は歌を詠み、珠を飛ばすが如く岩に当たる水しぶきを美しいと思ったのです。
いつの頃からか、落下する形のもののみを滝とするようになり、
景勝地の見解がややこしくなったのかもしれません。
鼓が滝という名前の由来が、滝壺に落ちて響く音が鼓の音色に似ていることからと
するならば、落下型の滝だったのかなあとも思いますが…
どちらにせよ、地名にも残っているのだから、
美しい景勝地であったことには違いないのでしょう。摂津名所図絵にも登場しますし。
ちなみに滝山寺というお寺は、
滝修行のために滝のそばに個人が建てた祠が始まりのようです。
で、やっぱり滝山寺には危険だから訪問するのはおすすめしない・・・
とくくられていました。( ̄▽ ̄)
西行さんの歌に関しても、明治以降に講談や落語で語られたもので、
史実ではないとのこと。でも歌碑は建立されてます。
鼓が滝駅から徒歩5分くらいの下滝公園にあります。
ま、枝雀さんもいつもおっしゃってる、落語は嘘ばなし、つくり話ですからな。
これも民話の碑ということで。
チュンチュン
さてさて
摂津に美しい滝があると聞いてやって来た西行。
なるほど良い景色やということで一首詠みます。
『伝え聞く 鼓が滝に来てみれば 沢辺に咲きし タンポポの花』
我ながらようできたと悦に入って滝に見とれているうちに、
あたりは薄暗くなってきました。その日の宿も決めぬうちに日が暮れてしまい大慌て。
やがて山の中に一軒家をみつけて一晩の宿を頼みます。
お爺さん、お婆さん、その孫らしき娘の三人暮らしのようです。
快く招き入れられて夕餉をごちそうになると、
そのお礼の代わりにと、先ほど鼓が滝で詠んだ歌を披露します。
するとお爺さんに『音に聞く鼓が滝に来てみれば、…』と直され、
お婆さんに『音に聞く鼓が滝を打ちみれば…』と直され、
極めつけ娘には『音に聞く鼓が滝を打ちみれば、川辺に咲きし白百合の花』と直され、
とうとう原型がなくなってしまった。
ちょっとムカつくけど、なるほど自分の歌よりはるかに良い歌になった。
まだまだ修行が足りないと、西行が恥じ入った途端に一陣の風が吹き抜け、
今まで山家の一軒家だと思っていたところは、何もない松の木の根方でした。
さては、自分の慢心を諌めるために姿を変えて現れた和歌三神であったに違いない。
これから決して歌道に慢心いたすまいと、甚く反省したのでありました。
こうして西行はやがて日本一の歌人となりました。
チュンチュン
サゲはこの語りオチと、
神さまに無礼を働いたのではと恐れる西行に、木こりが
「大丈夫。この滝は鼓でバチ(撥)はあたらない」という地口オチがあります。
【本日のよもやま】
和歌三神とは和歌の守護神で、住吉明神、人丸明神、玉津島明神の三神を指します。
住吉さんが和歌の神さまでもあるとは知りませんでした。
住吉明神が和歌で託宣を行ったという記録や伝承がたくさんあることからとされてます。
人丸明神は柿本人麿呂のことで歌聖と称されるほどすぐれた歌人であることから。
玉津島明神は衣通姫尊(そとおりひめのみこと)のことで和歌の名手。
衣を通して輝いたというその名の通り絶世の美女だったとか。
こんなにすごい和歌の守護神が三人とも夢に出てきて添削してくれるなんて、
やっぱり西行はただものではないってことですね。
西行は、もともとは佐藤兵衛尉憲清という禁裏北面のお侍さん。
禁裏北面といえば上皇の身辺警護にあたる院直属の名誉ある精鋭部隊。
ここでは歌会が頻繁に催されていて、すでに高い評価をうけ才能を発揮していました。
流鏑馬の達人であったり、蹴鞠の名手であったり、
武士としても一流で文武両道のエリートです。
さらに北面の採用条件にはルックスの良さも重視されていて、
西行は容姿端麗だったようです。
大河ドラマ平清盛で西行役だった藤木直人さんを思い出して、しばし妄想♪
西行は22歳の若さで出家しますが、その理由のひとつとされているのが、
ある高貴な女性との失恋。この段が落語の『西行』になっています。
染殿の内侍に恋をした憲清。思いを遂げて一夜をともにしますが、
別れ際に「またの逢瀬は?」と尋ねると
内侍は「憲清、阿漕(あこぎ)であろう」と袖を払って帰ってしまわれた。
憲清、この阿漕の意味が分からない。
歌道に精通しているはずの自分が言葉の意味がわからないことに
随分ショックを受けたのでしょう。
そこから一念発起出家して西行となり、歌修行の旅に出ることになります。
で、旅すがら伊勢の国で出会った馬方との会話でその意味を知るのですが、
サゲがちょ〜っと色っぽくなってます。
大概はサゲまでいかずに終わらせてらっしゃるようですが。
チュンチュン
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