落語の旅人、庭乃雀でございます。
大阪の遊里の歴史は古く、遊女発祥の地ともいわれています。
またまた“発祥の地”です。
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江戸時代大阪には新町、堀江、北新地、南地と大きな花街が4つあり、
中でも新町は大阪最古の花街、唯一幕府公認の遊郭として、
江戸の吉原、京都の嶋原と並んで日本の三大廓とされていました。
新町は今はなき西横堀川、立売堀川、長堀川と川に囲まれた地域。
それゆえ船着場が多くあり、舟客目当ての遊女の家が点在してしておりました。
他にも非公認の遊里が市内に30以上もあったらしく、これらを一箇所にまとめて
管理しやすくするべく出来たのが新町遊郭です。
当時まだ未墾の原野だった葦原を開拓して、新しい町を作ったので“新町”と
称されました。
新町では遊女を抱える置屋と、遊興の場である揚屋があり、
お客さんは揚屋にいて太夫、天神を招くシステムでした。
招かれた太夫は揚屋入りと言って、禿という若い遊女二人をお供に、
長柄傘をさして行くのが常となっておりました。
後々これが“太夫道中”としてショー化していくのです。
今回はそんな新町遊廓の名残を探しに現在の西区新町界隈を
ぶらっと一周してみました。
地下鉄四ツ橋駅1号出口を出て、四ツ橋筋を北上。
新町1丁目交差点1本東の通り、阪神高速高架の側に新町橋跡があり、
記念碑として当時の橋柱が設置されています。
新町橋は、新町遊廓の東の入り口として西横堀川に架かっていた橋です。
この橋を渡れば、浮世を離れた別世界。橋は空間の境界線でもあります。
橋を渡ったつもりで新町通を西へ。 新町北公園あたりが九軒町と呼ばれたところ。
立売堀川だったところは通りとなり、公園の前は今はオリックス劇場になっています。
九軒町は新町の中でも格式の高い揚屋が並び、揚屋町と言われるほどでした。
有名なところでは『廓文章』の夕霧、伊左衛門のお芝居の舞台となった吉田家、
他に大和屋、高嶋屋、茨木屋。置屋では扇屋、木村屋、槌屋、富士屋、佐渡島屋などが
あったようです。
扇屋は、京都の遊郭発祥の老舗で、嶋原から新町に移転して来ました。
この扇屋の看板太夫が夕霧。美しく、全てにおいて優れていた夕霧太夫は、
たちまち新町でも評判に。絶大なる人気を誇っていましたが、
残念ながら若くして病死してしまいます。まさに美人薄命でございますね。
九軒町内には桜が植えられ、特に廓を囲んでいた堤の上に植えられた
桜の景観は見事で、桜堤として親しまれ、桜の名所となりました。
春はぼんぼりが灯され、夜桜見物のお客様さんのために太夫道中も行われて、
たいそう賑わったようです。
満開の桜の堤、桜吹雪舞う中をゆく艶やかな太夫の道中。
想像しただけでドキドキします。さぞかし美しい光景であったことでしょう。
桜の堤は今はもうありませんが、
新町北公園に植えられた桜が当時の名残をとどめています。
太夫道中は普通こうしてお花見の季節に行ったそうです。
桜と太夫、これ以上の美しい取り合わせはないですもんね。
でもどういうわけか、幕府から花見時の道中を禁止されてしまいます。
夏の盛りに変更となったそうで、何かと大変そうです。
時は幕末の頃、そんな真夏の九軒町が舞台のお噺が、本日のお題『冬の遊び』です。
冬のお噺かと思いきやなんと真夏のお噺でした。季節外れですがお許しを。
チュンチュン
さてさて
今日は太夫道中の当日。
なかなかお目にかかれない松の位の太夫さんが
タダで間近で見られるというので、新町はたくさんの人出。
通りは人でごったかえしてます。
三味線の音は聞こえてくる、常と違うなんとも陽気なこと。
新町でも指折りの大店の吉田屋さんも朝からてんてこ舞いの忙しさ。
そこへ、堂島の旦那衆が3,4人も遊びにやって来て、
馴染みの栴檀太夫を座敷に出せと言います。
太夫は道中の真っ最中。出せるわけがありません。
実は、この人たち嫌がらせに来たのです。
道中というのは非常にお金のかかるもの。
特に新町の道中は、芝居の扮装をしたりして趣向を凝らしているので
尚更です。スポンサーの存在は不可欠。
新町のスポンサーは大阪の三大権威の堂島、雑魚場と天満の市。
この三つの機嫌を損ねるのはもってのほか。それなのに!
うっかり堂島へ、道中開催の挨拶に行くのを忘れていたのです。
すわ、新町の一大事!
吉田屋のベテラン仲居のお富さん、頑張ります。
役人を色仕掛けやらお酒やらでごまかし、道中を止め、
なんとか太夫を連れてくることに成功します。
やって来た栴檀太夫の扮装は『船弁慶』の知盛。
暑いさなかに芝居のメイクに知盛の衣装をびっしり着込んで、
汗ひとつかいていない太夫に堂島のうるさ方も感服。
そこでみんなで太夫への心中立て。
冬の装束を着込み、障子をいれ、襖を入れ、料理も鍋物に変更。
火鉢に炭をガンガンいこして冬尽くしの趣向で散在しますが、
幇間の一八だけは我慢できずに綿入れを脱ぎ、
褌一丁になって庭に降り、井戸水を頭から浴びてしまいます。
そこで堂島の旦那が「おお、お前は何の真似をやってんねん?」
「へえ、寒行の真似をしております」
チュンチュン
【本日のよもやま】
サゲは文章で読むとわかりますが、音で聴くとすぐには分からないかもしれませんね。
雀は???でしたσ(^_^;)
でもわかってみると面白く素晴らしいサゲです。
もともとのサゲは・・・
「あんまり寒いので気い失いよったな。懐に祝儀入れたれ、ぬくなったら気いつくやろ。」
だったらしいですが、米朝さんがこの噺を復活させた際、変えられたみたいです。
うん、米朝さんのほうが断然いいと思います♪
米朝さん曰くこの噺、ただの我慢大会の話にしてしまっては、台無しです。
新町の威信をかけた盛大な太夫道中、
やり手のベテラン仲居お富さんと新米仲居のお仲さん、新町と堂島の関係など
中身が濃い〜です。商人の町大阪の心意気なんかも感じられる、
大阪ならではのスケールの大きなお噺になっていると思います。
お富さんが道中をとめてしまうくだりは臨場感あってドラマチックで、
やっぱり米朝さんの力量によるところが大きいのかなと思います。
チュンチュン
江戸時代、大阪の遊女には「太夫」「天神」「鹿子位」「端女郎」の4つの位がありました。
太夫は松の位、天神は梅の位で、招くお茶屋にも格式があって、
太夫は揚屋茶屋、天神は天神茶屋でしか呼ぶことができませんでした。
もっとも格の高い太夫さんにつくお客さんも大尽クラスの方ばかり。
高級役人や富豪商人、時には皇族の方や朝官、文人のお相手もしなくてはなりません。
歌舞音曲は当たり前のこと、華道、茶道、香道、書道、和歌、碁、双六などあらゆる“道”に
精通している必要があり、容姿端麗なうえに最高の知性と教養を身につけた
まさにスーパーウーマンだったのです。
元禄年間、新町には800名を超える遊女がいた事が確認されています。
その頂点をとる太夫さん、並大抵のことではないですねえ。
チュンチュン
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