落語の旅人、庭乃雀でございます。
本日のお噺に出てくる和光寺は大阪市西区北堀江にあります。
和光寺というより、阿弥陀池という名の方が通っていますが、
本名は和光寺という尼寺です。
摂津の国八十八ヶ所第3番札所でもあります。
地下鉄千日前線西長堀駅下車 5番出口から出て北へ。
最初の辻を右に約100m、あみだ池筋を渡った角にあります。
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その昔、蘇我氏と物部氏による崇仏廃仏論争が起こった頃、
百済から贈られた阿弥陀如来像を物部氏が難波堀江に沈めたと
日本書紀の記述にあります。
その後、この阿弥陀様は信濃の本多善光という人に救われ、
信州にお連れして善光寺のご本尊となられたそうです。
その沈められた池というのが、嘘か誠かこの池だったという伝承があり、
『阿弥陀池』と呼ばれるようになったとか。
浪花百景にも阿弥陀池を描いたページがあります。
今、池の周りは墓地になり、橋が石づくりになり、
池も池の真ん中にある放光閣も少し規模が小さくなったようですが、
たくさんの亀がのんびり遊んでいる光景は、今も昔も変わらないようです。
蓮をはじめ花が盛と咲いていて、美しい花の寺となっていました。
チュンチュン
阿弥陀池と言って、真っ先に頭に浮かんだのは、あみだ池大黒さん。
和光寺のすぐ近くにある創業200年の老舗のお菓子屋さんです。
大阪名物“粟おこし、岩おこし”という生姜風味の甘いお米のお菓子で
有名ですね。昔はかまぼこ板状でとても硬かった覚えがありますが、
今は味も形も色々揃っていて楽しいです。
もちろん昔ながらのものもラインナップに並んでいて、なんだか
とってもノスタルジックです。
『おこし』は日本で最も古い歴史を持つお菓子だそうで、
さかのぼればなんと弥生時代! 奈良時代にも平安時代にも
文献に同じような原料製法のお菓子の記述があるらしいです。
江戸時代、大阪は『天下の台所』と呼ばれて大変繁栄しておりました。
そのころ土佐堀川、長堀川の河畔には西国諸大名の蔵屋敷が立ち並び、
年貢米の運搬に千石船が盛んに往来、その船底にこぼれた大量の
お米に目をつけたのが大黒さんの初代。
そのお米を安く買い取っておこしづくりを始めたのが大黒さんの
成り立ちです。詳しいお話は大黒さんのホームページで!
他にもおもしろいお話が沢山読めますよ。(*^^*)
岩おこし、粟おこし、ようおこし♪
身を起こし、家を起こし、国を起こすという縁起の良い意味をこめて
大阪から広く日本中に広まりました。
今回のお噺のテーマ、言葉遊びに通じましてめでたしめでたし。
チュンチュン
さてさて
新聞を全く読まない、読まなくても世間のことはなんでも分かると
豪語している男が、町内の長老にことば遊びでおちょくられてます。
例えば、こんな話。阿弥陀池の尼寺にピストル強盗が入ったが、
尼さん少しもあわてず、自分の胸をはだけて指差し、ここを撃てと言った。
そこで尼さんの旦那さんが、その泥棒の命の恩人である上司だったことが
わかり、申し訳無さに自決するというのを尼さんが止めて諭します。
「元からの悪人などいない。誰かにそそのかされて来たのでしょう?」
「はい、阿弥陀が行けと言いました」
はははーこんなことば遊びおもろいね。
次はこんな話。3日前、西の辻の米屋に盗人が入った。米屋のおやっさんは
なまじ腕に覚えがあるもんで、盗人と互角の格闘になってしまう。
一時おやっさんが優勢にたったけれど、ちょっとのすきに、あいくちで心臓を
一突きされて一巻の終わり。盗人はさらにむごたらしく、おやっさんの首を
掻き落として、糠の桶に放り込んで逃げたまま、まだ捕まらん。
こんな話、おまえ聞いたか?
「聞かん」
「聞かんはずや。糠に首(釘)すっかすかや〜」
はははーこんなことば遊びおもろいね。
からかわれて悔しい男は、自分も誰かをおちょくりたい。
仕掛ける相手を探し求めて行くうち町内を遠く離れた知り合いの家へ。
西の辻に米屋はない。裏の米屋におやっさんはいない。
すっかり話の辻褄があわなくなってしまってあたふたしたけれど、
なんとか米屋殺人事件のいきさつを話し始め、いよいよオチに突入!
と思ったら、相手の様子がなんだかおかしい。
盗人に襲われたとした人物が、なんと知り合いの嫁の実の弟だったのでした。
しゃれにならへんと激怒され、
「こんなこととてもおまえの頭で考えられんやろ。誰が行けと言うたんや!」
「ああ〜阿弥陀が行けと言うた〜」
チュンチュン
うまい! ようでけたお噺ですね〜。最初の話の言葉遊びが二番目の話の
落ちになっているのです。おしゃれ(≧∇≦)b
全編こまかく言葉遊びづくしになってたりして、爆笑大巨編です。
【本日のよもやま】
“植木市をひやかして、すまんだで一杯”の“すまんだ”って?
大阪の方言で隅っこのことをすまんだというのだそうです。
大阪人ですけど存じませなんだ。古い言葉ですね。
当時 境内の隅っこに『百々屋(どどや)』という精進料理屋さんが
ありました。“隅っこにあるあのお店”ということで『すまんだ』
通称として百々屋さんのことをそう呼んでいたのですね。
江戸時代から大阪が空襲されるまで、
和光寺は今よりもっと広大な境内を持つお寺でした。
たくさんの演芸場や遊技場が境内に立ち並んで賑わい、
特に旧暦の4月に行われる植木市は有名で、遠方からの参詣客にも評判で
大阪の名物行事になっていたそうです。
そんなわけでこのお噺の男と長老も植木市を冷やかして、
すまんだで一杯飲んだのでありました。
チュンチュン
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